525600

僕は新社会人だ。仕事ももちろんしている

職種は介護職、まぁボチボチやっているってところ

なぜ、この仕事かというと自分でもわかっていない

ただ周りが向いているといっていたからだ。それだけだ

仕事内容は正直きついのか、きつくないのかもわかっていない

毎日、同じことの繰り返しである

だがそれはどの職種でも同じなのではないだろうか?

僕は、この職場が初めてなのでよくわからない

ただ、学生時代にアルバイトしていた飲食店とはまた違う雰囲気だ

年老いた方々を見ていると、どうしても色々考えさせられてしまう

始まりよりも終わりの方が大事だといっていた友人を思い出す

彼がいっていたこともあながち間違いではないのだろう

ここで考えていきたいことが人間はどのように生きてどのように死ぬべきか

人間は、ほとんどの人が同じ行動や生活をしていると思うが

細かく見ると全然違うことに気づくだろう

まぁそんなこと正直どうでもいいのだが・・・

さて、まずはどのように生きるかである

自由に生きた方が言いに決まっている

好きなことで生きていくべき

社会はそう甘くない

そんかことは通用しない

いろんな声が聞こえてくるだろう

もしかしたら普通の人生を歩みたいという人が大人数を占めているのかもしれない

だが、真剣に自分の生き方について考えた人は果たしてどれくらいいるのだろうか

僕は今20歳だ。80代まで生きるとしよう

そうすると僕の残りのは60歳となり時間に変えると52万5600時間

となる、少ないと感じるか長いと感じるかはあなた次第である

僕は、あとこの世界にこれだけしか存在できないということになる

そう考えると、怖くて怖くて仕方なくなる・・・眠れない夜が来る日もある

「死」についてはまた今度語りたいと思う

果たして高齢で施設に入居した方々は幸せなのだろうか

家で自然とこの世界から去ることが一番幸せだと思うのは僕だけだろうか

過度な延命は苦しみを増やすだけだと思うのは僕だけだろうか

そこまでして長生きする意味とはなんなのか、生きるとはどんなことなのか

20歳の私にはわからない、誰かが教えてくれるのか?

こんな問題に正解はあるのか?間違いはあるのか?

この世界には僕にとってわからないことしかない

実は本当に知っていることなど1つもないのではと本気で思う時がある

何が正しいのか悪いのか・・・真なのか嘘なのかわからない世界で生きていくことは

苦しいだけなのかもしれないと思う日もある

そうなると、生きていることは無駄なように感じる。ただ苦しいだけなのだから

死んだほうが楽になれることは間違い無いであろう。

しかし、本当にそうなのか?人間は苦しむためだけに生きているのか?

僕には全然わからないが一つだけ言えることがある

死んだらこれらのことを考えることができなくなるということだ

死んでしまったらそこで終わりなんだと思う

生まれ変わりなんてあるわけがないしあってはいけないのだ

どのように生きていいのかなんて誰にもわからないはずだ

この世の中にある数少ない絶対の一つであることは間違い無いだろう

なら、やはり考えることに意味があるのでは無いか

苦しみながらも考えて生きていくことこそ真に生きるということでは無いのだろうか

少なくとも私はそう思っている

残りの525600どう使うかは僕次第なのだから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読書

最近、本気になってやっていることが少なくなっていることに気づいてしまった。

なんてことだ、これはかなり重大な欠点であると思う。

人生は悲しみと喜びがただ繰り返されるだけだと聞いたことがあるが

本気になれなければ喜びはかなり減ってくるだろう

つらいな

とまあ、ここからが本題

社会人になってよくわかったことが選択肢の多さだった

自分で選択することが全てなので今まで選択をしてこなかった僕は

困惑し困ってしまうのだ。

もちろんなんとかやってはいけているが・・・

学生時代のこれをやっておけばいいと決められていることがないのだ

つまり、人生に指標がないということになる

自分でなんとかするしかない・・・

 

学生時代の頃は社会人になったらもう宿題とかしなくていいんだな

とか思っていたのだが、今思えば何かすることが欲しいと心の底から思っている。

最近はゲームもしていないやっているのは読書ぐらい

宿題はもちろんない、残業も出ていない、仕事後やることがない

読書は学びを提供してくれる。

学びは自分の選択肢を増やすということだと思っている

また、学びを忘れてしまったらそこで成長は止まるのでは?

そう考えると怖くなってしまうのは僕だけだろうか。

今は読書を愛していることが唯一の救いである。

17歳から読書を始めた・・最初のきっかけは目立ちたかったからだと思う

今思えば、僕が通っていた高校は僕も含め頭のいい人がとにかく少なかった

ここでいう頭がいいということは、いい点が取れることではなく

客観的に自分を見つめることができる人

または、将来に向けて今を犠牲にできる人

こんな感じの人たちのこと

話を戻そう

高校生活は当時はきっと楽しかっただろう

毎日、授業は聞き流すことに徹する、休み時間は学生特有のグループに分かれ

それぞれが違う話をする。もちろん僕もその一人

パズドラやモンスト、FFやドラクエなどだいたいゲーム関係の話が多かったな

そして、昼休みになる。昼休みも基本的には休み時間が長くなったぐらいの感覚

そして午後の授業をなんとか切り抜け、部活動に励む

毎日この繰り返しだった。恐ろしいことに2年間は全く同じことをしていた

僕は決まった連中とは絡んでなかったので昼休みはいろんなクラスに足を運んだ

どのクラスに行っても誰とでも話すことができた。

だが、どのクラスも過半数が同じ人たちと過ごしていることに気がついた。

それらをダメだということではない

むしろ、立場の強い弱いがはっきりとしていた高校生としては

集団になり自分を守るということはまともな考えだと思っている。

その時に他の人と何か差別化できないかと思った僕は数ある選択肢の中から

読書を選んだ

この高校で休み時間に本を読んでいるのは全クラスで僕だけだったと思っている

もちろん目立った。

「真面目か」「すごいね」たくさん声をかけられた

すごく気持ちがよかった。目標は達成された

だが、人は慣れる生き物いずれ誰からも声をかけられることもなくなり

当たり前の風景として周りに認知された

だが、ここで思わぬ成果も得ることができた

なんと読書が好きになってしまったのだ

読書しなさいと小学校から教わってきたがその意味を初めてわかった気がしたのだ

それからは、どんどん本にはまっていった

最初は、「化物語シリーズ」「サマーウォーズ」などの物語の本を多く読んでいた

高校を卒業してからは、いわゆる自己啓発本などを読んだ

そして、専門学校時代では今でもよくわからないのだが

重力やら光やらの相対性理論みたいな難しい本を読んだ

ちなみに、いまだに相対性理論は理解していない

また、「7つの習慣」「道は開ける」「嫌われる勇気」など有名な本を読んだのもこの時期だった。

そして、20歳になった現在は、哲学の本を読んでいる。

「死とは何か」という本に関しては2年前に買ったのにまだ全て読んでない

多分400ページぐらい読んだんであと200ページくらい?

こんな風に僕はいろんな本を同時に読み進めている

人によって違うと思うのだが僕はこの方法が一番楽だ

好きな時に読みたい本を読むんで読まずにいる本も多くある

だいたい、月に8冊ほど買うのだがだいたい月に読むのは2〜4冊

調子が良かったら6冊ほど

ちなみに全てを理解する必要はない

一つでも心に残ったらきっとその文字は大切なものなんだろうし

残らなかったら自分には必要のないことだろう

それに、本を読んでいたら何かが蓄積されることに気づくことがある

この蓄積されていくものこそが本当に大切なことなのではないのだろうか

・・・・なんか書きたいことを書いていたらなんかグダグダになってしまった

とにかく言いたいことは、もし少しでも本に興味を持っているなら

絶対に読んだ方がいいということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本音と建前

よく本音と建前が逆になることがある

意識はしていない無意識の状態で後から気づくことが最近よくある

僕は、環境のせいにする人間が好きではなかった

「会社のせい」「あの人のせい」「こんな理由があるから好きじゃない」

こんなよく聞くセリフが好きじゃなかった

だが、たとえ嫌いだったとしても僕はよく使用していた

今思えばそう心から思う

あれをやめたいと思っていた時確かに僕は言い訳をしていた

「ここがなくなればいいのにな」

「自分のは才能がないからさ」

「でもそれって無駄なことだよね?」

こんなことを毎日心の中でつぶやいていた

あれこれ理由をつけて、やらないことが多かった

それで、後から後悔する。

「やっておけばよかった」

「あそこでこうしてなかったからこうなってしまった」

ふざけるな、お前がやらなかったんだお前が選んだんだ

もしあの頃に一言だけ伝えるとしたらこういうだろう

だが、このような過去あるからといって現在を嘆いていたら昔と同じだ

このことから僕は学ばなければならない。

いろんな文句、または言い訳が出てきたときは

心からそれらが溢れてきたときは

それらがなぜ出てきたのかを考えなければならない

心の声を正確に理解しないといけないのだ

不満や文句には必ずシンプルな答えがあるはずなんだ

僕の経験上ではそう感じている

心の雑音に囚われてはいけない本質を見抜かなければいけない

最初はきっとできないだろう

だが意識するということに意味があるのだと思いたい

毎日そうなりたいと願っていればきっと行動や思考は変わってくる

そういったものを毎日積み重ねていけば

夢や希望が打ち砕かれてもまた新しい別の道が見えてまた戦えると

僕はそう信じている

あくまでシンプルに物事を分解していく

そして、本質を見抜いたらあとは簡単だ

行動するだけなのだから

 

 

 

思考

人の人格はどのように作られていくのだろうか、そう考えたことは誰でもあると思う

今の人格はいつどのように形成されたのかどんな影響を受けてきたのか

そう考えて見たら僕の人格はその時期の考える力つまり思考により人格は出来ていくのではないのかと感じた。

僕は学生時代は何も考えることはしなかった

周りに合わせる事や周りから嫌われないことを第一に考え生きていた

そもそも、生きていたと言えるのだろうか?

いや実際はもちろん生きていた

しかし精神、心の中は本当に生きていたのだろうか

周りの声に合わせることを得意としていた

いつも周りには話の会う人しかいなかった

どれだけ考えてきたのだろう

自分自身のことを将来のことを

今の自分は本当に子供の頃になりたかった姿なのだろうか

もちろん答えは返ってこない過ぎ去った時間を取り戻すことはできない

今の僕にできることはただ考えるだけだ

少しでも悪いところから前に進めないといけないだろう

自分の選択で生きていきたい

自分の人格を磨いていきたいと心から願っている

人格は思考だ

頭を使う習慣を身につけなければならない

それが人間たる証拠なのだから。

 

 

認知的不協和

最近読んだ哲学の本にこんなことが書かれていた。

「人は、自分の行動を合理化するために意識を変化させる生き物」

この言葉を読んだときは何をってるのかわけがわからなかった。

つまり私たちは「意識が行動を起こす」のではなく「行動が意思を決める」

こういうことになる

そんなことがあってたまるかと思っていた。

だが、落ち着いて考えてみる

高校時代の練習はとても辛く楽しいと思ったことはほとんどなかった

むしろ、最初から最後までよく怒られていた記憶がある(ほとんど僕が悪いのだが)

これで、楽しいというやつはほとんどいないだろう

しかし、友人や上司などに「部活動は楽しかった?」

と聞かれると僕は、はいと答えることが多かったことを思い出す

なぜ?

当時は辛く楽しくなかったはずだ周りもそうだったはずだ!

裏で、「きつい」「やめたい」「楽しくない」

と言っていた仲間も今振り返ったら楽しかったなと言っていた

なぜだ?

このことは、認知的不協和の論文を書いた人

アメリカの心理学者 レオン・フェスティンガーが説明してくれていた

「部活動はとても辛くやめたかった」という認知と「部活動は最後まで続けた」という事実が存在したとします。

しかしこれらの二つは本来真逆に近い存在つまり不協和ということです

「部活動を最後まで続けた」という事実を変えることはできません

しかし「部活動はとても辛くやめたかった」と感じていることを「実は楽しかった」と変えるのはできます。

あくまで推測ですがこのような感じで僕や仲間は最終的に部活動は楽しかったと思うようにしたのでしょう。

なぜこんな気持ちになるのだろうと普段全然気にしていないことも気にすることで

こんなにも説明をつけることができます。

ということは、人間の行動1つ1つには理由が必ず存在しているのかもしれません

ぜひ、興味がある方は同じ本を買い考えてみてください。

 

 

参考資料 武器になる哲学〜人生を生き抜くための哲学・思考のキーコンセプト50

                                    山口周

 

 

 

 

 

 

悩み

今僕は悩んでいる、個人的な悩みでああるがどうしようかと毎日悶々と生活している

もちろん頭はきちんと働かせているはずだ。紙に書いたり本を読んだり

なんとか解決策を見つけようと足掻いているところだ

そこで気づいたのだが私には悩みを話せる友達がいない

いやそれ以前に人に愚痴をいったことが記憶にないのだ

もちろんどこかでいってはいると思うが少なくとも私の記憶に残るような

愚痴はいってないのだと思う

僕は、どんなに辛くても誰にも基本的には相談せずに生活してきたみたいだ

多分、僕は優しいと周りからよく勘違いされることがある

そのことについては今は置いておこう

そのせいか、よく相談に乗ることが多かった

とはいっても人様にアドバイスをするなんておこがましいことはできずに

ただ話を聞いてだけではあったたが

そこで気づいたことがある

悩みのある人間はもう自分で解決策を持っているということだ

もちろん、例外もいたしいることだろう

しかし、ほとんどの人が話を聞いて欲しかっただけなのかなと思う

背中を押して欲しいのだろう、自分が欲しい言葉が欲しかったのだろう

今思えばそう思う

だが、ここで注意しないといけないことは自分で責任を取ろうとしていない事である

「あの人が言ったから」「あの人も賛成したから」

これらの言葉はかなり危険な事だと思っている

自分の頭で考えていないし何より自分の発言に責任を持っていない感じがする

選択することは自分の人生を切り開く最大の武器だ

今この世界はやろうと思えばできることがたくさんある

つまり僕も悩んでいるということは誰かに背中を押してもらいたい

と考えているからなのだろう

今文字にしていくうちに初めて気づくことができた

自分のことは自分で決める大人になりたいものだ

 

 

 

目標

僕には目標がない

人生がつまらないと感じるのは多くはこのことが原因だと思っている。

しかし、ここで考えていきたいのは目標は立てるべきなのかまたは本当に必要なものなのかということ。

終わりから考え目標を作っていく人

自分の直感に任せて少しでも楽しそうなことに飛び込んでいく人

など作る人や作らない人、様々な人がいることであろう

僕はゴールを定めていないとやる気が起きないタイプなのだと最近わかってきた。

もちろん、今後様々な価値観や体験が僕の中に入ってくることで変わることはあるだろうがとりあえず今はこのタイプだ。

しかし、今までの僕は目標は周りの人が考えてくれていた、または周りと同じ目標を

掲げていれば良かったのだが社会人になった今そんなことはありえないし自分で決めていかないといけない。

ここで改まり考えていく目標の決め方とはどのようにしたらいいのか

まず目標とはなんなのかいろいろ調べてみた結果

目標とは目印、自分の進むべき道の明かりだと僕は理解した。

だとしたら僕は急いで目標というものを作らないといけない

目標がないということは真夜中に明かりもなしにいきたい場所に行くということだ。

明かりがなくても周りの光を頼りに進むことも出来るかもしれない

だが、自分のあかりを持っていた方がまっすぐ進むことができる。

ブレブレの人生は個人的には送りたくはない、ブレることのない芯のある人間に僕は憧れている

小さい目標でもいい意識していくことが大事なのだろう