認知的不協和

最近読んだ哲学の本にこんなことが書かれていた。

「人は、自分の行動を合理化するために意識を変化させる生き物」

この言葉を読んだときは何をってるのかわけがわからなかった。

つまり私たちは「意識が行動を起こす」のではなく「行動が意思を決める」

こういうことになる

そんなことがあってたまるかと思っていた。

だが、落ち着いて考えてみる

高校時代の練習はとても辛く楽しいと思ったことはほとんどなかった

むしろ、最初から最後までよく怒られていた記憶がある(ほとんど僕が悪いのだが)

これで、楽しいというやつはほとんどいないだろう

しかし、友人や上司などに「部活動は楽しかった?」

と聞かれると僕は、はいと答えることが多かったことを思い出す

なぜ?

当時は辛く楽しくなかったはずだ周りもそうだったはずだ!

裏で、「きつい」「やめたい」「楽しくない」

と言っていた仲間も今振り返ったら楽しかったなと言っていた

なぜだ?

このことは、認知的不協和の論文を書いた人

アメリカの心理学者 レオン・フェスティンガーが説明してくれていた

「部活動はとても辛くやめたかった」という認知と「部活動は最後まで続けた」という事実が存在したとします。

しかしこれらの二つは本来真逆に近い存在つまり不協和ということです

「部活動を最後まで続けた」という事実を変えることはできません

しかし「部活動はとても辛くやめたかった」と感じていることを「実は楽しかった」と変えるのはできます。

あくまで推測ですがこのような感じで僕や仲間は最終的に部活動は楽しかったと思うようにしたのでしょう。

なぜこんな気持ちになるのだろうと普段全然気にしていないことも気にすることで

こんなにも説明をつけることができます。

ということは、人間の行動1つ1つには理由が必ず存在しているのかもしれません

ぜひ、興味がある方は同じ本を買い考えてみてください。

 

 

参考資料 武器になる哲学〜人生を生き抜くための哲学・思考のキーコンセプト50

                                    山口周